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by 鈴木 芳雄
2001年2月1日記
ラショー、ムセ旅行前夜
2000年12月7日から、ラショーを経てムセまで4泊5日の旅行をしました。この地域はシャン州北部の中国国境地帯で外国人の旅行にはなかなか面倒なところです。かねてからこの地方には郷愁のようなものをもって一度行ってみたいと思っていました。10月から11月の始めにかけて、知り合いの日本人が相次いで行ってきたとか、これから行くところなどとの話を聞かされ、半ば衝動的にわたしも行こうと決めました。
古い話ですが、終戦の時、私は旧制中学1年生でしたから、戦争に検する知識は戦後に読んだ戦記ものから得た後知恵が大半です。ビルマ作戦もその一つで大変興味を引かれていました。その中に出てくるのが今回のラショーです。日中戦争の最中、連合軍がこのラショーを起点として雲南省昆明まで全長1153kmの道路を突貫工事で建設しました。いわゆるビルマ公路(援将ルート)で、ビルマ作戦の誘因となった曰くつきの道路です。
たまたま家内が12月初めに来緬することになっていたのでいい機会とばかりに12月7日出発で計画しました。早速大学を経由して教育省に旅行許可を申請しました。これが11月に入ってからです。最終的には国防省の許可が要るので間に合わないかもしれないが、その時はその時、出発をずらせばよい、駄目なら止せばよいと気楽に考えていました。
行こうと決めたものの、この地域に関する地図もなければ案内書もない状態です。長距離バスはあるとのことでしたが、あまり上等なものではないようでとても長時間外国人には耐えられそうもないことがわかりました。鉄道もラショーまでは入っているが時間的に当たてにならないとのことでした。仲間からは乗り合いタクシーを勧められましたが、最終的には知り合いのツアー会社率下のタクシーを1台チャーターすることにしました。
私と家内は12月6日の夕刻、ヤンゴンからの長距離バスでやっとマンダレーに到着しました。15〜6時間の予定が何と24時間もかかってしまい、惨憺たるバス旅行でした。当初バスが故障、代わりのバスがパンク、マンダレー到着寸前に特別臨検に会うといった具合でした。余談ですが、それでも乗客からは何の不満も聞こえてこないから不思議です。
家内と共に定宿にしているマンダレーのホテルに着いた時点でも、旅行許可に関して大学当局からは何の連絡も来ていない状態でした。明日からの旅行はとても無理とめかけている時、突然学長が係りの者を従えてホテルに現れたのです。「ラショー、ムセ」行きの許可は下りた。しかし許可書は手許に届いていない」とのことでした。「それなら、その許可書が届くまで出発を延期する」と私は答えたのですが、学長は即座「それは駄目だ。予定通り明日出発せよ。途中問題が起きたら学校に電話するように」と懇願調にたたみかけてきました。
なんとも間の抜けた不安な気持ちでしたが、幸いツアー会社は、あらかじめこんな事態を想定していたのか、用意方端整えていました。特にガイドについては旧知の友人を選んで呼び寄せておいてくれました。こんな危なっかしい旅行では言葉の問題もあり、ガイドの必要を痛感していた矢先でした。私の場合、観光ビザではないのでミャンマー人公認ガイドの同行は不要と考えて手配をしていなかっただけに助かりました。
ケ・セラセラの心境で12月7日午前8時過ぎマンダレーをスタートしました。外観はまずまずですが後部座席に時々ガタンガタンと振動が伝わってくるような車でしたが快適なドライブの始まりです。旅行の模様は別稿に譲り結論に入ります。ムセの検問所で、ラショーの軍当局に挨拶がないと叱られたり、ムセの出入国管理事務所では連絡が全く入っていないと大もめになったりしましたが、一部見学先の変更は余儀なくされたものの、当初の予定通り12月11日マンダレーに無事帰着しました。
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