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鈴木 芳雄
2000年9月30日記
水
朝の散歩の際、家の前で顔を洗ったり歯を磨いている人をよく見かけます。よく見ると左手に水の入ったプラスチックの容器を持ち、右手だけを動かしています。洗顔している人の中には、片手だけで石鹸を使い入念な作業をしている人もいます。歯磨きについていえば、はブラシを使わずに人差指をもぐもぐと動かしている人もいますが、をれは小数で大半は歯ブラシを使い、口の回りに盛大に白い泡を立てています。一寸脱線ですが、我が家の場合、何時に間にかチューブの中身は米粒ほどつければよいと何処から変な知恵をつけられ少量しか使いませんので、口の外に白い泡が溢れるなどということは絶えて久しい現象です。
日本人は普通顔を洗うとき洗面器又は洗面台を使います。洗面器使用の場合に例をとれば、必ず水道の水を洗面器に受けそれを両手ですくって洗うか、人によっては洗面器を蛇口の下に置いたまま、蛇くちを明けたら出てくる水を即手のひらに受けて洗います。要するに、両手いっぱいに水を受けてぶざぶざと洗う日本人、溜め置いた水を片手に受け、小さいな所作で済ますミャンマー人、この違いは何処から来るのでしょうか。
マンダレー市内の名家庭に水が敷かれたのは5年ぐらい前だそうで、そんなに古い話ではないようです。工事は当然名家前で終わっていて家の内部への配管は自費となる為、庶民は戸外でホースから出る水を利用しているのが実状です。裏通りに住む人達は、朝の顔洗いどころか、洗濯も水浴びも総て道路に面した家の前か脇でやっています。
名家庭への水道の敷設で、住民は公共井戸のような共同水源から水を運ぶ作業をしなくて住むようになりました。この意義はすこぶる大きいといえますが、惜しむらくは断水が頻繁に起こるため、常に水を溜め置く作業をしなければなりません。したがって、蛇口からの水ではなく、溜め置いた水を使うという動作は従前何ら変わらないのです。
寮に住み込んで共同炊事場がないのを不思議に思っていました。トイレの洗面台で米を研ぎ、野菜や食器を洗うのは私です。ミャンマー人は大きなバケツに水を汲み、部屋に持ち帰って他の容器に小分けし、家事全般に大事に利用します。毎日も使ったような汚れた水が廊下に出してあるのを良く見かけます。ミャンマー料理には大量の油が使われるので後始末も大変です。私は部屋には水を持ち込まず、雑市一つゆすぐのにも、その都度トイレの洗面台に出かけていきます。郷に入りては云々といいますがこればかりは真似する気になれません。文化の違いなどという大袈裟な話ではなく、東京生まれの私の感性には合わないのです。
汲み置いた水を繰り返し使うということは、それだけ水を大事にするということでしょうが、私には経験が無いのです。戦後間もない頃のことですが、夜遅くチャルメラを吹いて売り歩くラーメン屋を呼び止め、どんぶりを提供した上で家の中に取り寄せては食べたものです。バケツの中で洗っただけの先方のどんぶりは不潔といった単純な発想からです。
ミャンマーに来て先ず驚いたのがこれです。キャンパスの中は勿論のこと、町中にある喫茶店、食堂のほとんどが皆この方式です。最初はずいぶん戸惑いました。しかしよく考えて見ると、現在の日本にもこのての店があるのです。駅前などに夜遅くから出る屋台のラーメン屋、全国的に有名な博多の屋台が好例です。こう見てくると、先進国だ、発展途上国だと言ってみても、テーマによっては5.60年の時間差のど問題にならず、同じ一こまの中で進行している現象もあるということがよくわかります。
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