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Essay by Fukamizu Masayuki          
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ある日本軍兵士の慰霊碑
by 深水 正幸

 2004年3月4日 ミャンマーのとある村で、旧日本軍兵士の追悼式が行われた。村の近くにある山頂にある記念碑に、村人百数十人があつまり、現地の司祭と日本人司祭で合同のミサが行われ、その後現地の音楽や踊りが供えられた。この記念碑は1989年この村の出身のタン司教と現地の人々によって建立され、その後年2回慰霊祭が行われている。

 この話は1943年から始まる。ところは当時ビルマ(現在はミャンマー)中部のカレン族の村タ・アオから始まる。この村出身のタン青年は16歳で神学校に入ったが、ビルマに日本軍が侵攻し、神学校は休校になり、村に帰っていた。 近くの町タングーには、日本軍が進駐し、首都ラングーン(現在はヤンゴン)とマンダレー(第2の都市)を結ぶ高圧線の工事に携わっていた。タングーには教会があったが、そこに日本軍の兵士が数人来て、そこのシスターに自分たちはカトリックの神学生であることを告げ、危害を加えるようなことは一切しないから安心するように告げた。その後も数ヶ月滞在したびたびミサにも来たが、町では日本軍による無法なことは一切行われなかったと当時を記憶している老人達は話している。

 その後日本軍は北方に移動していったが、1945年イギリス軍から地元の住民に、日本軍が敗走してくるので攻撃するように指令があった。この年7月タ・アオ近くに日本軍が来ていることが分かり、タ・アオの村民は攻撃に出かけたが、タン青年は神学生なので行くべきではないと言うことになった。村民は現在慰霊碑のある近くで日本軍を攻撃し、日本軍兵士34名が犠牲になった。その後この事件はしばらく忘れられていた。

タン青年は1947年神学校に戻り、1957年タングーで叙階され、その一月後、ローマの聖ペトロ神学校に入学した。 この神学校には全世界から多くの青年司祭が来ていたが、ある時「きみはビルマのバナナを持ってきたかい」とビルマ語で話しかけられた。驚いて聞いてみると、彼はピーター畑田という日本人司祭で、日本軍兵士としてビルマにいたと言うことであった。更に話してみると彼はタングーにいた日本人神学生の一人であり、自分は当時高熱で動けなかったが、他の神学生はタ・アオで戦死したらしいとのことだった。ここで戦死された神学生を含む部隊は長崎県出身者の部隊と思われる、しかし畑田神父も数年前に亡くなられたとのことで、今になっては詳しいことは何も分からないのは大変残念である。

 それでは自分の村の人たちが攻撃したのは、以前タングーで町の人たちと仲良くし、教会にもたびたび訪れていたという、あの人たちだったのだと言うことがタン神父に重い思いとして残った 。この神学校ではまた現枢機卿白柳師とも友人となった。 帰国後1969年に隣村のヤドーで司教に叙階された。その間タ・アオに帰った折に、村の人たちにこの話をした所、村の人たちもとても悲しんで、あの日本軍兵士はとても良い人たちだったし、自分たちに何も悪いことはしなかったのに、戦争のためとはいえとても残念だといって何か記念碑を建てようと言うことになった。

 1989年事件現場の山頂にこの記念碑は完成した。4面にそれぞれビルマ語、カレン語、日本語、英語で追悼の言葉が書かれており、日本語は白柳枢機卿によるものである。 英語の碑文には、「私たちの勇敢な日本人の殉教者、兵士の親しい記念に1945,7,6」と書かれている。この碑は現地の人々によって日本軍兵士のために建てられた非常に貴重なものであろう。  その後当地では毎年4月と11月に村民による慰霊祭が行われている。数年前、タン司教の要請を受けて、白柳枢機卿の秘書深水神父が日本人として初めてこの慰霊祭に参加した。

 今年はタン司教が高齢のため、今後思うように行かれないと考えられて、自分が元気な内に日本人にも来て貰って追悼式を行いたいとのことで深水神父と信徒3名が参加した。 3月2日夜にヤンゴンに着き、翌朝6時半、タン司教とともに車で出発した。途中タングーまでは、ミャンマー第2の都市マンダレー への道を約300キロ北上 、そこまでは舗装道路で6時間、しかしタングーからは殆ど未舗装の山道で200キロを8時間かかった。おまけに今は乾期で前の車の赤土の埃でたびたび前が見えない状態もあった。夜になるとあかりは一切無く、時々木々に大きな蛍が群がっていた。しかし夜8時40分 タ・アオの教会に着くと数百人の村民と楽隊が整列して私たちを拍手で歓迎してくれた。

 車を降りると老若男女の握手責めに会い、全く信じられない思いであった。その後、夜遅くまで踊りや音楽で歓迎された。翌日は短時間であったが村内を訪問し、当時のことを覚えている老人にも会った。「お手手つないで、日の丸、兵隊さんよありがとう」などの歌を歌ってくれたのには、本当にびっくりした。60年前のことである。 その後記念碑のある山へ村の人たちと登った。私たちのことを配慮して、一人ずつの前後に付き添い、傘まで差してくれた。

山上には既に数百人の村人が集まり、隣村の楽隊も来ていた。碑の周りで多くの踊りや音楽が捧げられ、タン司教、タ・アオの神父、深水神父の共同追悼ミサが行われた。山頂は空は晴れ渡り、さわやかな風が吹いていた。この空と風を数十年前、若い兵士達が感じながら亡くなられたと思うと感無量であった。またもしここに遺族の方々がおられたら、どれほど喜ばれ、村の方々に感謝されただろうと思わずにはいられなかった。 帰りは既に日が落ちていたが、隣村ヤドウに行き、そこでも前日と同じような暖かい歓迎を受けた。前日の教会にもう一泊し、翌朝タ・アオをあとにしたが、ヤンゴンまでやはり14時間かかった。

筆者は一人数日ヤンゴンに残り、郊外にある日本軍墓地を訪問した。戦争中に陸軍が建てた碑、戦後に生き残った人たちが建てた碑、日本政府が建てた碑、個人が建てた碑など色々あったがその中に「ビルマの人々は、日本軍を歓迎し、援助し、敗戦後も変わらぬ仏心で我々に接してくれた。ほんとうにありがとう」との文は、今でも変わらないミャンマーの人々の心だと確信した。

ミャンマーは現在種々の政治的な理由により、やや半鎖国的な状態にあり、経済的には近隣の諸国と比べるとかなり遅れているが、人心は経済発展に巻き込まれていないだけ、かえって穏やかであり、人々も非常に親切だったのが、印象的であった。

このつたない一文は、戦後半世紀が過ぎた今なお、ミャンマーの人々が、日本人に殆ど知られず、営々と日本人兵士の追悼を続けていられることを、遺族の方々、そして戦争を知らない多くの若者にも知って貰いたいとの気持ちで書いたものである。文章のつたなさはご容赦願いたい。

(C) 深水正幸