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吉岡医師の現地リポート

手術をさせてもらえる場所がない

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それから数ヶ月後のある日、再びミャンマーに入っていた私は、ふとしたことからある新聞社が難病の子供にお金を出し手術を日本で行わせてくれる基金を見つけました。そしてこの忘れようとしていた子供にこの基金が使えたならばと考えたのでした。しかし、最後に別れてから既に5ヶ月が過ぎようとしていました。私は頭ではもうこの子は死んでいるだろうと考えました。しかし、一度会いに行ってみようと思いました。住んでいる町の名前は分かっていましたが、住所は分かりませんでした。私たちがいる町から150キロほど離れた町でした。母親の名前を頼りに探してようやくこの子のうちを見つけました。母親の顔、父親の顔、確かに見覚えのある顔がありました。あの子は生きているのかと恐る恐る聞いてみました。するとある方向を指差しました。そこには小さな鉄製のかごに入れられ耳元に置かれたカセットテープから流れる音楽を聞かされていたあの子が確かにいました。それを発見したとき私の正直な感想は「なんと、生きていた!」という驚きのものでありました。

2004年 8月

2004年 10月 日本での術後


しかしその顔は以前と違い少し浮腫んでいました。そして首に当てられた大きなガーゼ。それを静かに取ってみると、そこには大きな腫瘍が、むき出しになっていました。最後に見たときの何倍にも膨れ上がり、そして大きく破裂し、そこから出血を起こしていました。あまりのむごさに皆が一時言葉を失っていました。そしてその僅かな一瞬で私は多くのことを悟りました。この期間にこの子が経験してきたこと。家族の苦しみ悲しみがどれ程だったかということ。周りの人たちがどれほど心を痛めていたかということ。そして私は今一体どこに行ってしまったのかと考えていたことなどを。私たちが現れる数日前にこの子が両親に何度も日本の医者から電話がかかってきたかと尋ねたそうです。その数日後に本当に我々が現れたので両親はびっくりしていました。そして私は決断をします。お金は本当にもらえるかどうか分かりません。もらえない可能性のほうが多いのです。それでも、お金の当てもなく日本に連れて帰るのか。もしお金が集まらなかった場合、ジャパンハートの来年以降の活動費も廻さなければならない、それだけでなく私が大きな負債を抱え込む可能性もある。そうなったとき団体が大きく傾いたり、さらに壊れてしまうこともある。それでもこの子を日本に連れて帰って手術を行うのか。私の傍らでは若い日本の医者や看護婦たち、そして共に働くミャンマー人スタッフたちも固唾を飲んで私の決断を待っている、、、、、、、、、。

そして私は静かにこの子の頭をなぜながら決断をしようとしていました。このとき私を取り囲む大きな輪の中でこの子やその親たちのみならず、私の後ろから私の背中を見て付いて来ている日本の若い医者や看護婦たちのことを同時に考えていました。私がこれから下す結論で、家族やこの子の運命も大きく変わるかもしれない。そしてこの若き日本人たちの将来ももしかしたらこの決断に大きく左右されるかもしれない。そう感じていました。

そして、私は静かに皆にこう告げました。「この子を日本に連れて帰り、手術を行います。これから数ヶ月はこのたった一人の子のためだけに皆で動きます。」それを聞き終った時の皆の目が輝いた瞬間を今でも時折思い出します。そして続けてこう言いました。「お金のあてはほとんどありません。もしかしたらこの判断が団体の寿命をも縮めてしまうかもしれません。しかしそれでもやらねばならないこともあります。心がまず動かなければ、人も物もお金も動きはしない。まず心を動かす。そこから始めましょう。」

そして、このミャンマーという国で2ヶ月弱という短期間に全ての準備を整えて日本での手術にこぎつけました。かつて別の団体は病気の子を日本で手術を受けさせるためにこの国を連れ出すのに、3年以上かかっていました。勿論、今回はそんな時間の余裕はありません。この子の命はもってあと6ヶ月、それ以内に確実に死は訪れます。私は今回の経験を通じて、何がこのように短期間でこのこの来日を可能にし、何が別の団体での3年以上にも及ぶ時間を費やす結果となったのか、ということを考えたとき、結局、人の命に責任を持つ覚悟や心があるのか、という命題に集約されるのだと思います。

私はこの子の命を引き受けました。もしお金が集まらなければ、借金をしてでも自分が出す覚悟でした。この子と関わった数ヶ月間は全てこの子を中心に時間が回転していました。人は自分の子であれば多分私と同じにしたのだと思います。しかし、所詮、他人の子、他人の運命。それが、少しづつ少しづつ結果に現れ、やがて大きな差になります。他の団体の人たちは多くの人数が関わったにもかかわらず、3年以上も費やした背景にはこの様な意識の違いがあったのだと思います。人の命に責任を持つ。そのために必死になる。そのことが理解できなかったのだと思います。

大きなことを考える前に、一人一人の人生にしっかりと焦点を当てる。それこそが我々の最も大切にしているものことです。

そして日本で手術が始まりました。かつての恩師を頼っての手術でした。この先生は私のこの懇願を何も言わずに快く受け入れてくれました。この様な人々の無形の暖かい助けによってやがて1人の命が死から生へと大きくその舵を転換していきました。その大きな転換は、まずは私たちの中で始まり、最後に日本に付き添ったこの子の母親へと辿り着きました。この数ヶ月、この子の家族はこの子の死への準備を心の中でしてきました。日本へ来てもなを何日もの間、母親の心の中は死の比重で大きく占められていました。しかし、少しづつ少しづつ生が動き始めたのです。そして、手術が始まりました。決して簡単な手術ではありませんでした。頸部をほぼ8割覆い尽くした腫瘍は深く頸部に食い込み容易には摘出できるものではありませんでした。しかし5時間の後、ほぼ全ての腫瘍を取り終えて無事手術が終わりました。

この手術に関わった医師や看護婦は11人になります。皆がただこの子のために生きた5時間でした。思い起こせば、ミャンマーから出るまでの間、本当に多くの日本人の方々に協力していただきました。大使館の方々も本当に驚くほど短期間に全てを準備して頂き、ミャンマーから日本に向かうことができました。日本に来てからも多くの日本人やミャンマー人の方々が、この子のために祈り、励まし力づけてくれました。一体、何人の方々がこのこのために関わったでしょうか。全て尊い力でした。来日から35日目夜、この子は再び生きて祖国へ帰っていきました。この子に関わった多くの方々が実は、その後に心満たされ、尊い時間を過ごしたことを感じています。神様や仏様は世界をそんな風に創っているのかもしれません。自分以外のもののために尽くした者にこそ、かけがえのない豊かさを与えてくれるのだと思います。私たちジャパンハートのメンバーは、この子と共にミャンマーに再び降り立ったとき、本当にすばらしい時間を過ごせたのだと感じました。

この子を空港へ出迎えた父親がこの子をその胸に抱いたとき、生きて帰ったわが子をやさしく目を細めながら抱いているその風景は、まるで一枚の絵のように、雑踏の音も失い、周りの景色も色あせ、時が止まったようでした。そしてそれを見ている私たちは計り知れない満足感に包まれたのです。その瞬間こそ、まさに「永遠なる現在」というに相応しい時間でした。この光景はこれからも私たちを生涯にわたって励まし続けることと確信します。


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