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  • 7年前、単身ミャンマーへ渡り、以来現地に身を置き激動の時代を生き抜く。企業・政府・マスコミ等との長年に渡るビジネスを通して培ったスキルや現地・日本の人脈をフルに活かした調査・進出コンサルティングは在ミャンマー日本人の中でも随一である。 Since 2001/1/1
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ヤンゴンプレス3号連載記事 第1回


ヤンゴンプレス3号連載記事 第1回

By 西垣 充


    まず、大学受験を失敗しました。それが全ての始まりだったのかもしれません。

    大学に入るまでは海外に特別強い興味があったという訳ではありませんでした。しかし、「このままでは就職できない!何か自分で大学生活に色付けしなくては」という危機感もあり、兄のいるカナダへ留学することを決めました。私が留学した先はカナダアルバータ州エドモントン。当時は日本人も少なく、授業料が安かったのでこの地を選びました。

    当時この地は、カナダの中でも特に移民を希望する人々が多く、世界各国からの人々がクラスメイトでした。母国の政情から移民し第二の人生を送ろうという人が多くいました。当時90年代初め、世界ではいたるところで戦争が起きていた時代。日本に住んでいた私にとって、内戦なんてものはテレビの中でしか聞いたことがない未知のものでした。留学中に、天安門で巻き込まれた中国人や内戦で逃れてきたラオス人、チェコ人ら歴史的事件を経験した人々の話を身近な人から生で聞き、新聞やテレビなどからの情報とは親近感も違う角度からの内容も驚かされることばかりでした。そしてそれら経験から、日本人がいかに恵まれた民族なのかを思い知るきっかけとなったのです。

    留学プログラム3ヶ月目ぐらいのとき、兄がヒッチハイクでカナダ人とともにエドモントンに訪れるという話を聞き、留学プログラムと一時ストップ、兄とともにヒッチハイクの旅に出る決断をしました。とはいえ、開始3日目には兄と友人のカナダ人が目指す目的地と私が行きたいと思った目的地と隔たりが出て、1人でアラスカを目指しヒッチハイクをすることになったのです。2ヶ月間、たった1人でお金も持たずに北極を目指すというかなり過酷なものでした。この経験を経て「自分の体さえあれば、どこへ行っても生きていける」と思える自信がついたのです。

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学生時代に、北極圏にて

    また、カナダ滞在期間にはカナダ人に一緒にIT系の会社を立ち上げようと誘われたこともありました。会社設立に関しては全く何も分かりませんでしたが、面白そうだと思い話に乗りました。結局会社を設立することはなかったものの、その時に会社を作るのはそんなにハードルが高くないとわかるきっかけになり、今につながる貴重な経験となっています。会社を作るのは簡単だが維持することが大変と知るのはミャンマーに来てからです・・・。

    そうして、1年間のカナダの生活が終わる頃には、「せっかく日本人に生まれたのだから、いつかは海外に出てその強みを生かしたい」という思いを抱くようになりました。そのためには、まず自分がどこでも生きていけるようなプロにならなければならないと思い、帰国後に就職先は経営コンサルティングと決め、運良く大手経営コンサルティング会社の(株)船井総合研究所に内定が決まりました。

    卒業後の働く会社が大学4年の6月には決まり、私は長期間の旅に出ようと思い起ちました。行き先はインド。理由はバックパッカーならインドが面白いと噂を聞いていたからとそれだけの理由です。ところがちょうどこの時期、インドでペストが大流行していました。とりあえず行ってみないと分からないと思いバンコクへ飛び発ちました。

     バンコクで情報収集した結果1ヶ月程待った方がいいと言われどうしようかと考えていたところ、ベトナムが面白いという話を聞きました。当時は「ベトナム?戦争があったとこやん」くらいのイメージを抱く時代。知識は皆無ながらも、ベトナムは面白そうだと思い、カンボジアを経由してベトナムに行こうと決めました。

    当時のカンボジアはまだ治安は安定していませんでした。空港には軍用機が数機あるわ、キリングフィールドに人の骨が転がってるわ、ロケット弾の音がするわと。えらいとこに来たなあと感じたことを覚えています。

     ベトナムを回っているとき、偶然ハノイに駐在する日本人の方と知り合いました。当時ハノイでも日本人駐在員数十人という時代。ベトナムで仕事したいと思いを伝えたら、私のようにベトナムには長年働いている日本人がいる。ミャンマーならたぶんいないから、ミャンマーに行ってみなさい。と助言を受けました。その時はまだミャンマーの場所すらはっきりわからない状態だったのですが、あまり知られてない地に行くことに味をしめてしまった私は、ハノイから一旦日本に帰国してミャンマーに行くことにしました。

    初めてのミャンマーに対する印象は、「何とかしないといけない」というものでした。何故か自分勝手にそのように感じたのです。知識なしでミャンマーに来てみたら、文字通り本当に何もない。車もほとんどない。ズボンなんて履いている人間は皆無でみんながロンジー。タイから飛行機1時間行くと「こんなに変わるの!?」と驚いたのを覚えています。そして中でも一番衝撃的だったのは、メイドさんの扱い。残飯を食べたりベランダで寝たりする姿を目の当たりにして、同じ人間なのにどうしてこうも違うのかと。結局、人間って全然平等じゃないんだなと感じました。

     ベトナムの印象は皆やる気がありすぐ発展するだろう、カンボジアは援助がたくさん入るだろう、しかしミャンマーは、、、なぜなのだろう、何が原因なのだろうとそんなことを考えながら旅行していたのを覚えています。そして私がミャンマーで何かしなければ、、、これまた勝手に決め込み、とりあえずは帰国しました。

     大学を卒業して(株)船井総合研究所で働き始め中身の濃い充実した生活を送っていました。しかし、95年7月、アウンサンスーチ女史が開放されるというニュースを聞き、これは早くミャンマーに行かねばという謎の使命感に襲われ、あせり始めました。

    そんな中、普段ほとんど見ることのない新聞の求人欄の「ミャンマー駐在員募集」との項目が目に飛び込んできました。今から考えても不思議でたまりません。人生の流れには逆らってはならないとの先輩からのアドバイスもあり、ヤンゴンに行くことが私の人生の流れと感じました。そして、偶然に偶然が重なり、旅行会社で現地オペレーター会社、(株)サイトラベルサービスのヤンゴン駐在員として96年4月ヤンゴンにやってくることとなったのです。(続く)

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赴任当時、中国国境ムセにて


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赴任当時、サイトラベルスタッフと

(C) 西垣 充